昭和42年12月04日 朝の御理解



 お礼を申しておりますと、お礼を申し上げることのあまりにも大きい、多いことに驚くばかりでございます。お願いを申さして頂いておりますと、お願いをしなければならんことの多いのにもう本当にびっくりいたしますね。あれもこれもと願うことの多いのに驚きます。またお詫びをさして頂いておりますと、本当にうっかりしておったことの中に、あれもお粗末これもご無礼と、お詫びをしなければならんことがあまりにもお粗末ご無礼の多いのに驚きます。
 私はとても信心をしておって、まあ困ったことがあったり災難にあったり問題が起こったりいたしますと、これほど信心するのにと言った様な気持ちが起こったり、そしてそのために心が暗くなったり、意気消沈してしまう人があります。どれほどの信心ができておるかとね。そのどれほどというほどの信心もできていないのに、いかにも神様の不調法で問題が起こったり困ったことが起こったりしておるような考え方では、相すまんことです。と同時にそれではやはり、おかげにつながりません。
 やはり私どもはおかげを受けなければ立ち行かんのですから、どちらに致しましてもやはりおかげを頂かなければなりません。今朝から親先生のお供をして私は今日小倉に出らしてもらいます。先日からあちらのタマヤが火事になったそうでございますね。教会があのタマヤの下でございますから、言わば近火見舞い、お見舞いに参らして頂くのでございます。私も一緒にお供するわけでございますが、はあこれは本当に形の上においてはお見舞いだけれども。おかげで今日は小倉にお礼参拝が出来るなと。
 とまあ今日は私一人でございますけれども、心ひそかに楽しんでおりました。ところがそのお礼参拝が今日はお詫びの参拝になろうとはもう本当に、それこそ夢にも思わんのでございましたのですけれど、そのお詫びのことだって、原因が一つや二つではございません。もうお詫びをさして頂いておりますと、本当にそのお詫びの根の、根というかそのお詫びをしなければならない事の、お気付けを頂いておったことが、お気付けと気が付かずに、今日まできておったと言う事を感じます。
 今朝からもう私もここへ5時ぎりぎりで、滑り込みでございましたが、御神飯がお供えしてない。もうほんなこて息の止まるごとびっくり致しました。私の御祈念中に足音がいたしますから後ろで恐らく、まあ御神飯をお供えして、してございましたですね、さして頂いた。それは10分か20分か遅れたともんだなと、それだけでございますけれども、私にとってもはもう大変なことなのですよ、これは。もう本当に慎みに慎み、かしこみにかしこんで、今日は小倉へ私は今日はお詫びに参拝さしてもらおうと。
 さしてもらおうじゃない、さしてもらわなければならないわけでございますが、それとてもここ何日間、まあ家内達も子供達も私も疲れておったと言えばそれまでですけれども、そのことをお詫びさして頂いておりましたら、もう一言二言じゃないですね。そしてまあ私今日、お詫びに終始した御祈念でございましたが、なら今日一日私がお詫びに徹したから小倉までお詫びにお参りさして頂いたから、それですんだとは思いません。そこで思わせて頂くことでございますけれども、お互いのね。
 信心しておって一つもよかことはない。信心しておるとにこう言う事が起こって、とてもとてもそんなことなんか、思えるだんの事はこれからもありません、先でもありませんですね。もうそういう時にはそういう時ほど私はお詫びをしなければならない時だと思うですね。お気付けを頂いておるという時には、もう本当に痛いと思うほどのお気付け。しもたと思うほどのお気付けね。
 時には時ほどに私はお詫びをするより他にない。それにもかかわらず、これだけ信心するとにどうしてこげなことが、とてもそんなことなんかはもう言えたり思えたりするものは何もありませんね。も、そう言う様な心持が、もし私共の心の中に起こったとするなら、いよいよ私共が信心不足であることを神様が私共の上にどのくらいの深い深い思いでおかげを下さろうとしておるかと言う事をです、悟らしてもらい分からしてもらう以外にはないですね。
 私は今日そう言う事を思いました。お互いが信心さして頂いておりましても、様々なことがあります。それを黙って受けていくと難儀なこと、難儀な問題が起きてくることを黙って受けていくだけではすみません。それこそ私はお詫びしぬいて受けるという信心がいよいよ必要だとこう思いますですね。そしてそのまあ言うならばお詫びが叶うたと、言う様な心の状態、周囲の形の上の事柄もです。
 まあ言やあ叶うたと、いうやっぱりその一つのしるしを見るまではやはりお詫びに徹しなければいけないなと言った様な事を感じたんですけどね。皆さん本当にお気付け頂いて、信心しよってもいっちょんよかこたなかじゃんのと。信心しよったっちゃこげな事が起こってと。と言う様な事では神様の心がいかに分かっとらんかと言う事が分かりますね。本当におかげを受けると言う事は、もう本当にそれは素晴らしい事。
 それこそまあ言うならば人間の知恵やら力ではどうにも出来ない事柄でも、例えて言うならば、ここに缶詰なら缶詰がありましても、側に缶詰がありましてもそれをあっただけでは頂く事が出来ませんね、それからというてなら石で叩いたり木で叩いたりしてもこの缶詰を食べる事はできません。そこに缶切りなら缶切りというものがあって、初めてそれはもういと易く、いと簡単に出来る事でございますけれどもです。
 お願いをしお取次ぎをしておかげを頂くと言う事は、私共はそういうおかげ、そういうおかげの頂けれる信心を、言わばさして頂いてるわけでございますけれどもね。私共がそれほどのおかげを頂いておると言う事を感じていない。それほどのおかげを日ごろ頂いていると言う事を迂闊にしておる。そこでやはりお気付けを頂くのです。ですからこのお気付けがお気付けと気付かしてもろうて、本気でお詫びをさして頂くことになってくる。そこからまた、おかげが普通に戻ってくるのでございます。
 信心の尊いと、言うなら私共はお詫びをしなければならない事に気づいて、お詫びをしておる姿が人間にとってはまあ尊い姿じゃなかろうかとこう思う。お礼を申し上げておる事も、お願いを申し上げておる事も、決して同じではありません、心の状態はですから本当言うと、お詫びをしておる姿がまあ一番謙虚に見えるんじゃないでしょうかね。今日は謙虚にならなければならんから謙虚になるのでなくて。もうお詫びしておる姿勢がそのまま人間の。いわゆる障子一重がままならぬ人の身の。
 私本当の姿でなからなきゃならんと思う。ところが調子が少し出て参りますと、お詫びすることをただ、お礼を申し上げておけば、それも本当に内容をよく改めてみますと、はあこの度の信心するからこういうおかげを頂いておると言った様な、まあ実に不遜な心の状態がそういう中にあるんですね、けどもお詫びをしておる時にはそれがない。どうでももう一つ、どういう信心さして頂いておっても、どう言う事があってもね。どうしてこんなことがあったりなんて思う様な事のないような信心を頂きたい。
 私は今日はそういう、まあお粗末ご無礼ができてお気付けを頂いたんですけれども、そのお粗末ご無礼をお気付けを頂いて、そのご無礼お粗末をです無駄にしてはならないね。そこから、またそこのところを手がかりにして、次の信心に飛躍していかなければならんと言う様な事を思いました。「敗戦の将、多くを語らず」と申します。もう今日は皆さんにお話どん聞いて頂けるだんじゃございませんのですけれども、今日のお礼参拝がお詫び参拝、お詫びの参拝に変えられたことを皆さんに聞いてもらいました。
   どうぞ。